西岡プロ自分史
Tennis Life History
西岡良仁プロの「テニス自分史」
起こることにはすべて意味がある
~すべては繋がっているんだ~
2023年11月に春日井市で開催した現役日本ランキング1位の「西岡良仁プロの自分史トークイベント」
西岡良仁プロ28年分の「しゃべる自分史」を
文章化=「読む自分史」に。
プロフィール
プロテニスプレイヤー西岡良仁選手
1994年生まれ 28歳
(イベント当時2023年11月)
三重県津市出身 ミキハウス所属
世界ランキング48位 日本ランキング1位
(2023年11月イベント当時)
世界で活躍するとともに、Youtube配信や若手選手の支援となるYoshi'sカップも開催されて、さまざまな活動をしている
はじめに
自分史のまち「春日井」だから!ということで
新しくスタートする、月の砂漠🌙プロジェクト
聞き書き「テニス自分史」のスタート記念にと
ジュニア・高齢者の方からのご要望で、WiFi環境がなくYoutubeがみられない方のために文字起こししました。
今回の西岡プロの「読める自分史」はニュアンスを変えないために、トークイベントの会話をそのまま、文字起こしした状態です
「聞き書き自分史」のように、インタビューしてまとめたものとは、違いますがご了承ください
現役日本ランキング1位の西岡良仁プロが、
春日井市に来て自分史トークイベントで自身の
テニスヒストリー、プロになるには!など、
テニスに対する想いを熱く語ってくださいました。
西岡プロのその想いを1人でも多くの方に伝えたい。Youtube配信だけではなく文章化することによって
もっとたくさんの方の目に触れていただけたらと思い
今回、文字起こしをして発信することにしました。
聞き書き「テニス自分史」は、自分史のまち
「春日井市」からテニスの魅力を伝えたい。
1人でも多くのみなさんにテニスをはじめてもらうきっかけになってもらいたい。
という想いから、新しく「月の砂漠🌙プロジェクト」としてスタートするものです。
あなたの「テニス自分史」が誰かのテニスをはじめるきっかけになるかもしれない。
テニスをやめようと思った誰かの続けるきっかけになるかしれない。
あなたのテニスとの出会いと人生のお話が誰かを励まし誰かのお役に立てるかもしれない
聞き書き「テニス自分史」は、あなたの過去のテニスヒストリーだけでなく、そこから学んだこと、気付いたこと、それを伝えることによりあなたと一緒に1人でも、多くのみなさんにテニスの魅力を伝えることができたらと思っています。
「テニス自分史」を通して、あなた自身も人生を見つめる、きっかけになったら嬉しいです
月の砂漠プロジェクト
エグゼクティブ プロデューサー 心美
⬆️写真 月の砂漠 代表 心美
西岡プロ春日井イベント主催者
⬆️ 聞き手 フリーアナウンサー 深谷里奈
(元東海ラジオアナウンサー)
深谷アナ🎤 西岡選手は春日井市に来たことはありますか。
西岡プロ🎾 春日井市は初めてです。
深谷アナ🎤 初!!
西岡プロ🎾 三重県出身だったので、テニスの東海大会とか、ちょっと違う場所ですけど、東山公園のテニスコートとかでは、よく試合をしたりしたことがありますね。
深谷アナ🎤 名古屋のほうには、よくいらっしゃったんですね。
西岡プロ🎾 よく来ました。
深谷アナ🎤 ありがとうございます。
このイベントがきっかけで、春日井市に来てくださったということで、イベントのスタッフたちがですね。まさか、春日井に西岡選手が来てくれるなんて!と言って、今日は(心美さんが)ボランティアスタッフやりますので。
西岡プロ🎾 ありがとうございます!
深谷アナ🎤 それで、今日は、春日井初の西岡選手にちょっとだけ豆知識なんですが。
春日井市で有名なものは「書のまち」書道。小野道風という書道の達人がいたと言われる「書のまち春日井」というのがありまして。
もう一つ「サボテンのまち春日井」というのもありまして。サボテンを栽培していたりとか、サボテンの食べ物とかもあるんです。 ご存知ですか?
西岡プロ🎾 はい。食べたことはないですけど、食べられるっていうのは知っていました。
深谷アナ🎤 あと、もう一つ「自分史のまち」というのがありまして。
市民ひとりひとりの、人間誰にでもドラマがあるんですよ。それを発掘して、文章に書き起こしませんかっていう「自分史を書こう」という事業をもう何年もやっている歴史があるんです。
心美さんもやっているんですよね「自分史」。
心美 🌙 はい。春日井市には「日本自分史センター」という、文化フォーラムという施設の2階に「自分史」について無料相談をやっているところがあるんです。
そこで「自分史サークル」というものがあったり「演劇×自分史」というのをやっていたりして。
それの活動を私はテニスより、、、テニスよりやっている!笑
西岡プロ🎾 すごい引っかかりそうですね。
打ち返しが。
心美🌙 人生のことを生まれてから墓場まで。
深谷アナ🎤 その今日は「しゃべる自分史」ということで。西岡選手には「西岡プロ自分史」28年分をですね。今日は一気に喋っていただこうかなと。
西岡プロ🎾 任せてください。
それは本当に皆さんの期待に応えます。
深谷アナ🎤 ありがとうございます。
まず、先ほど、おっしゃっていた出身は三重県津市ということなのですが、テニス自体のスタートというのは、おいくつくらいなんですか?
西岡プロ🎾 テニスを始めたのは、4歳頃だと思います。なので、歴が24年ということになります。
深谷アナ🎤 テニスって大体適齢期というか、何歳とかあったりするんですか?
西岡プロ🎾 僕はちょっと、コーチではないので、みんなが何歳から始めたとか、あんまり詳しくはないんですけど。
ただ、周りの同期の選手だったりは、大体、僕と同じくらいから。もしくは、小学低学年くらいまでには、始めてたかなと。
深谷アナ🎤 その4歳でテニスをスタートされたというのは、何か、理由があったのでしょうか?
西岡プロ🎾 父親がテニスクラブを三重県の津市で
経営していて、2つ上に兄がいたので、その影響でテニスをする機会があったと思っています。
深谷アナ🎤 なるほど、なるほど。それはやっぱり、ご両親がテニスをやらせようという感じなんですか?
西岡プロ🎾 でしょうね
(客席の西岡プロのお母様をみて)
まあ、父親が選手だったので、させたかったのかなとは思います。
深谷アナ🎤 なるほど。でも、やっぱりご自身も始めて「楽しい」と思いました?
西岡プロ🎾 そうですね。 正直、幼稚園の頃とかはどちらかというとコートを走っているくらいで。
ラケット持ってボール遊びをしているくらいだったと思うんですけど。小学生の低学年で試合に出始めたりするとやっぱり、テニスの本当の楽しさ、いわゆるゲームをやって、相手がいて戦って、っていうのが一番僕の中では楽しかったので。
そのあたりくらいは「テニスをもっとやりたい」って思い始めたと思います。
深谷アナ🎤 なるほど。そこの「楽しい」っていう境地になるためには、やっぱりお子様だから「なんで」みたいな「友達と遊びたい」とか、そういう葛藤はなかったですか?
西岡プロ🎾 いや、ありましたね。小学2・3年生とか、ずっとドッジボールがやりたかったので。ドッジボール大会があるんですよ。
だから、そっちに出たいって言ってましたね。記憶に残っています。ドッジボールの練習がしたいって思いながら、テニスコートにいましたね。
深谷アナ🎤 それは、スケジュール的には、ある程度1日にこれだけ練習しようね!みたいなスケジュールがあったんですか
西岡プロ🎾 テニスクラブだったので、子どものレッスンの時間と大人のレッスンの時間で分かれているので、この時間からこの時間しか、テニスの練習ができないと時間が決められていた。
例えば、その時は17時から19時、その2時間は練習する時間と決まっていました。
深谷アナ🎤 だから、その時間に合わせて、お家に帰ってテニスをするというスケジュールになっていたんですね。
それこそ、高校も同じですけど、私たちが知っている、卓球の福原愛選手、愛ちゃん、泣きながら卓球をしていたっていう、映像も残ってるんですけど、
西岡選手はどうなんでしょうか?
西岡プロ🎾 同じようなものだと思います(笑)
深谷アナ🎤 厳しいですね(笑)結構、厳しかった。
西岡プロ🎾 小さい頃から 今でもそうなんですけど、負けず嫌いなんで。
今も言っていた、愛ちゃんももちろんそうだと思いますし、たぶん、全アスリート、ほとんどがそうだと思う。小さい頃から負けることがなんでも嫌だったんですよ。たまたま、僕は近くに兄という存在がいたので、兄に負けることが一番嫌で。
深谷アナ🎤 最初のライバルって感じですか?
西岡プロ🎾 まあ、2つ上なので勝てないんですけど、最初は。でも、勝ちたいっていう思いで、負けたら泣いたりとか、繰り返しながらやっていた記憶はあります。
深谷アナ🎤 そうなんですね。悔しいっていう思いを原動力に頑張ってた。その小学校の2・3年生でやるぞっていう気持ちになったということですが、もう、その頃にはテニスで生きていくぞとか、プロになりたいとか、そういった大きな夢ってあったんですか?
西岡プロ🎾 明確に、ちゃんとプロになりたいと思いだしたのは、3年生くらいから プロになってみたいと。
深谷アナ🎤 小学3年生?
西岡プロ🎾 はい。それが三重県の県大会。愛知県にもあると思いますけど。
県大会を勝ち抜いて初めて東海大会に出たのが、小学3年生だったんですけど、その時、それこそ東山公園で試合があったんですけど。
やっぱり、それを経験して ちょっとずつプロを見据えてみたいなところにいって。初めて小学校6年生になったときに全国大会に出て、そのまま優勝
したんですね。
深谷アナ🎤 すごい!
西岡プロ🎾 そこから、すごい「ちゃんと自分はプロになれるかもしれない」っていうような想像・イメージができて、そこから本格的に目指したっていう感じです。
深谷アナ🎤 やっぱり大会に出て勝ち上がっていくことで、このフィールドでいけるみたいな、何か確信めいたものがあったということですか?
西岡プロ🎾 やっぱり僕は全国大会に出たりとかがなくて、小学6年生になるまでに自分がどの位置にいるかが、やっぱりわからなくて。三重県では年が同じ中では一番強くて、東海でも同学年では一番強かったんですけど。
全国に出た人と戦うって、全日本の中でどういった人が強いのかってあまり知らないんで。なので、果たして自分はどこまで強いのかっていうのが想像が
できなくて。初めて(全国に)いった時に優勝できたので、自分は実は一番強かったんだと初めて知った瞬間でしたね。
その時、やっぱり自分の中で自信になったりとか、本当に明確に今この年代で自分が一番なんだっていうのを把握したので、というところが、プロを目指すに当たってのひとつの要因だったと思います。
深谷アナ🎤 それは、大きい自信になると思います。それよりももちろん地元でトップ、全国大会でもトップ、かなり注目されてたんじゃないですか?
西岡プロ🎾 そうですね。特に出身が三重県の津市の方なので、現地の新聞の取材があったりとか、テレビの報道の取材があったりとか、そういうのは、多々、受けた記憶はあります。
深谷アナ🎤 でも、やはり、注目されているぞっていう実感よりも、やはり、結果としての 1位の方が自分にとっては大きかったということですか?
西岡プロ🎾 当時12歳とか13歳の時に、どれだけ新聞に載るとか、テレビに映ることの影響の大きさっていうのは、やっぱり、わからない時代なんですよ。
なので、どちらかというとテニスで勝っている方が自分にとっては嬉しくて。取材を受けて喜ぶのは、おばあちゃんたちとか、うちの孫がみたいな(笑)
深谷アナ🎤 なので、私たちは新聞やテレビで選手の活動みているを身としては、やっぱり、そっちの方についつい目がいっちゃうんですが、やはり負けず嫌いの男の子にとっては1位っていうのが大きいわけですよね?
西岡プロ🎾 それは本当に大きかったですね。
深谷アナ🎤 そうなんですね。で、その後の西岡選手の人生の歩みとしては、中学3年生の秋に世界ジュニアエリートが集まることで有名なアメリカのIMGニック・ボロテリー・テニスアカデミー留学というのが、これはちょっと転機になるのかなと思いますが、こちらはいかがでした?
西岡プロ🎾 そうですね。15歳の時に、アメリカのIMGアケデミーというところに留学させていただいて、この時は、元SONYの会長さんのバンドルがあって、その資金で行かせていただいたんですけど、上だと錦織圭選手だとかが同じような中で、アメリカに渡米していて、そこは僕にとって、大きな変化だったと思います。
やっぱり、当時、三重県だと地元で一番で全国でも一番だったので、練習する相手の選手も必然的に自分よりも実力が弱かったり、やはり、そこのIMGに行けば各国の強い選手たち、もしくはプロの選手が集まって当時、錦織選手もフェデラーに会いたいとか。ちょっと、みなさん分かるか分からないんですけど、トミー・ハースという元4位くらいにいた選手だったりとか、そういう選手がIMGにいて
15・16歳の時によく練習させてもらっていたので。
深谷アナ🎤 そのアカデミーは何歳ならいけるよ、ということじゃなくて、結構、幅広い年代の若い選手がいるっていう感じですか?
西岡プロ🎾 結構、幅広いです。そしてプロももちろんいるので、常にいる選手もいれば、たまにいるような選手もいます。子どもたちは、みんな住み込み寮があるので、そこで生活をして朝から夜までコートで練習をするという形でしたね。
深谷アナ🎤 テニス漬け!
西岡プロ🎾 もう、ずっとテニスしていましたね。
テニス、トレーニング、テニス、トレーニングってずっとやってましたね。
深谷アナ🎤 早口言葉みたいですね(笑)
それまでは、西岡選手は海外行かれなかったんですか?
西岡プロ🎾 試合で行ってました。
ベースは15歳までは三重県津市で自分のクラブでずっと練習してました。
深谷アナ🎤 そうなんですね。ではアメリカに行くっていうのは、ちょっと、また「日本で1位」からさらに上を目指す、ご自身の中ではかなり大きい階段、ステップになったんですかね?
西岡プロ🎾 そうですね。15歳の時には、ある程度「こういうプレーがしたい」っていうのが決まっていたので、なので世界には自分より強い選手がたくさんいるというところも、やっぱり経験は常にしてきたので、そういうところに身を置く必要性っていうのを感じていましたし。
やっぱり、どちらかというと日本人の体格というか、当時、平均が170cmくらいだったんですけど、海外だと16歳で190cmくらいの子たちがいっぱいいるんですよね。
そういう選手たちと練習や試合をすることで、世界レベルの人たちと一緒にテニスができる、それをやっぱり経験していかないと勝ってはいけないので
そこの経験が僕は大きかったです。
深谷アナ🎤 やっぱり背が高いと必然的に手足が長いのかなと思うんですが、大きい人の方が得ですか?
西岡プロ🎾 ネットがある競技は断然高い方がいいですね。
例えばバレーボールに関しても背が高いほうが有利だと思いますし、もちろん、別に身長が低いから絶対に勝てないっていう話ではないんですけど、有利不利と言われると有利だと思います。
深谷アナ🎤 でも、それを自分の体で体感することで覚えた学びとか、それは、対戦してみないとわからないですもんね。
西岡プロ🎾 そうですね。やっぱり身長170cmは世界の中でも一応、最小に値する最小の階位に位置するなので、世界基準でみちゃうと本当にいないので、やっぱりそんな人とどれだけ、何を自分が扱ってやっていけるかっていうのは、大事になってくると思います。
深谷アナ🎤 心美さんは何か質問ありますか
心美🌙 いきなり振られて、びっくりしましたけど(笑)
メンタルをどう維持するのか、試合で。意識とかをお聞きしたいですね。
西岡プロ🎾 結構リアルな話をしていくと、僕たちって大体1年間52週あるわけですけど。
大体、多い選手で35週間くらい。35大会ですね。僕はちょっと少ない方なので25大会未満とかしか出ないんですけど、1年の半分以上大会に費やすとなると、全部を100%で戦っていくっていうのは、結構難しいんですね。
もちろん、体の疲れ具合だとか、怪我の状態とか、調子の良し悪しだったり、とくに僕ら海外を転々としていくので1週間後には違う国にいたり、1週間後には気候が変わってコートが変わってサーフェス、ボール全部が変わっていくので、そういうのにフィットしなかったりとか、逆にしたりとかっていう、ここの違いがすごい1週間で変わるんですよ。
なので、僕らの中では本当にグランドスラムをどれだけ、いい状態で戦えるか、ここにまずはピークを持っていきたいんですよね。
で、このピークを持っていくために、どういうふうにツアーを大会に出られるか、っていう形になりますけど。なので正直言うと、ずっとずっと1年間を通じてずーとオンになっている状態かと言うとそれは、違うと思います。
ただ、やる時間にオンになってやらない瞬間にオフになって、この切り替えが僕ら大事で、やっぱりオン・オフの重要性っていうのは、結構、僕らの中でも大事だということで、トレーニングするとかはもちろん、明確にトレーニングなんですけど、僕らの中では休むということもちゃんとトレーニングの一つだという意識で、結構僕は休むので。
心美🌙 なるほど。ちゃんと休む時は休むというのが重要ですね。
西岡プロ🎾 でも、なんか、それって僕はすごい後輩とかにもたまに言うんですけど、人間1週間、ずっと働けって言われたらきついじゃないですか。
どこかで休まないと厳しいわけじゃないですか。
なので、そういう過労がどうのこうのとか、いろいろ言われると思うんですけど、それは僕らも一緒でずっとやり続けてると、うまくいかない瞬間が絶対出てくるわけですよ。
なので、どれだけうまく休んで、いい瞬間を持っていきたい時にどれだけ作れるかっていうことが、僕らプロの実力一つだと思っているので、そこがプロになる上で大事になってきます。
心美🌙 とても参考になりますね。うまく休んで、いい瞬間に持っていくための充電というか、それが大切ですね。ありがとうございます。
深谷アナ🎤 今プロとして、オン・オフが大事というお話をお聞きしましたが、西岡選手がプロ宣言されたのが18歳の時ですか?
そのプロ宣言をするのとしないのとでは、生活がだいぶ違ってきたりするのでしょうか?
西岡プロ🎾 日本、まあ、テニスにおいては明確にプロとアマチュアの境目が結構曖昧なところがあるんですね。ゴルフだとプロ資格という、そういう試験があったりするんですけどテニスだとなくて。なので、ちょっと曖昧なんですね。
ただ、プロになると宣言したときは、いわゆる「テニスで生きていきます」というところになるので、ひとつは自分の気持ちの持ち方だと思います。
あとは、まわりへの伝え方の変化ですね。自分はテニスで生きているっていうのをちゃんと伝えるような効果があるというのが宣言の1つだと思います。
深谷アナ🎤 じゃあ特に試合の種類だとか、そういうのは変わらないという。
西岡プロ🎾 変わらないですね。大きな変化はそこまでないと思います。
深谷アナ🎤 そうなんですね。18歳でプロ宣言をされて生活は変わらないにしろ、どんどん世界に出ていくということになると思うんですけど、自身の中で、まずは18歳でプロ宣言 そのあと最初の印象的な試合ってどんな試合でしたか?
西岡プロ🎾 18歳の時に、それこそプロ宣言の前だったんですけど、全日本選手権という、日本で一番大きい「天皇杯」っていうのがあるんですけど、それに18歳の時 初めてでて準優勝だったんですね。
そのときプロになって、ある程度の成果を踏まえてプロ設計をしていったんですけど、やっぱり正直18歳の時にある程度、プロの試合の規模に出ていたので、かなりいろんなところで戦っていたのですが、プロに転向した1年目で一応テニスの最高グランドスラム、全米オープンの予選に出ることができたんですよ。
初めてそれに出れるってなったときは、結構緊張して。
「わあすごい!これがテレビで観たグランドスラムのUSオープンの会場だ」っていう。初めて観たんですけど、そこで自分が初めてテニスをして、まあ、
その時が一番緊張したと思います。
そのまま、うまくいって本選まで上がってしまったので、初めての本選だったんですけど、いろんなものも体力も全部擦り減ったので、本選上がるときに
熱を出して辞退したんですけど全部、使い切ったので、予選が終わって本選に行った瞬間に全部、切れましたね。もう、そこまででプツって。
深谷アナ🎤 そうなんですね。その経験もあって今オンオフが大事っていうとこですよね。
西岡プロ🎾 そうですよね。
深谷アナ🎤 やっぱり、まだ、そこまで自分の経験もまだまだだしっていう、技術はもちろん持っていることだと思いますけど、でも本当に最初はワーって上がっていって、最後切れちゃったっておっしゃったんですけど、キャリアでいえば、誰もが夢見るようなキャリアだというのは錦織選手に次ぐスピードで、どんどんランキングも上がっていきましたよね。
そのあたりは、ご苦労がなかったですか?
西岡プロ🎾やっぱり錦織選手がいた大きなメリットを僕らはすごい受けていると思っていて、錦織選手は最高4位まで上がっているんですけども。
当時、錦織選手が一番良い結果を出した全米オープン準優勝した試合が、あのとき、僕、中国の上海の大会だったんですよ。
そのとき決勝に残っていて、裏で僕が優勝したんですけど、その時とかはやっぱり、いわゆる僕らにとったらスーパーヒーローというか憧れの選手の
1人が、しかも日本人でやっぱりテニスってどうしても、白人のスポーツだったので、やっぱりアジア人がなかなかそんな上にいけないスポーツの一つだったんですけど、それを塗り替えていった1人だったので、そういう影響とかはすごいなって。
その影響もあって、その大会は僕も優勝できたのかなって思っていますし、いろんなものを目指す先に誰もが経験したことがあることって可能だと思えると思います。
深谷アナ🎤 確かにやっている人がいるんですもんね。
西岡プロ🎾 0から1を加えるのはすごい大変だと思うので、それを既に錦織選手はやっていたので。僕らからすると、その可能だと示してくれた道を進めるので、それは正直、僕らにとって大きなメリットだったと思います。
深谷アナ🎤 少し先に先輩がいるっていう、その背中を追えるっていうところも素晴らしいなと思うのですが、やはり、どんどん海外で遠征、遠征で試合をこなしていくという生活だと思うのですが、いつ頃から、どのように検討してからどんどん海外生が多くなって行ったのですか?
西岡プロ🎾 僕が初めて海外にいったのは、12歳ですね。小学生大会で優勝したときに初めて中国に行ったんですけど。それこそ、初めてそのときに同級生に負けました。人生で初めてなんですけど。
深谷アナ🎤 日本ではそんなことはなかったと。
西岡プロ 🎾 日本人の同級生には1回しか負けたことがないので、人生で。
深谷アナ🎤 すごいですね。
西岡プロ🎾 初めて海外で台湾の選手だったんですけど、同じ歳の選手に負けて、自分より強い同年代が世界にはいるっていうのを初めて知りました。
そのときから、そこからどんどん海外に行って東南アジアはたくさん行きましたし、アメリカに行った15歳のときには既に皆さんが聞いたことないような国とかグアダルーペっていう島とかエルサルバトルっていう世界的に超危険な国とか、グアテマラっていうコーヒーが有名な国とか、そういう国には僕らは行っていて、たぶん今後行かないだろうなっていう場所に小さい頃から周っていたので、プロになる前から既にその経験はありました。
深谷アナ🎤 海外をもう体験されていたのですね。
生活っていう意味での質問なのですが、自分の家に帰れない生活がずっと続くわけじゃないですか。それって、慣れていくものなんですか?
西岡プロ🎾 慣れますね。すごい慣れていくものだと思います。もともと、そんなに日本にいる時間がなかったので、ここにいる皆さんが子どもたちの年代のときにはそれこそ、小学校の卒業式も出られなかったですし、中学でも試験は1回もでてないし、まあ、それは皆さんも出たくないと思うのですが(笑)
深谷アナ🎤 そうですね(笑)
西岡プロ🎾 音楽の授業とか1回も出れなかったので、空欄でした。
深谷アナ🎤 テストが?
西岡プロ🎾 成績表。
深谷アナ🎤 え?5段階で1もつかないくらいってことですか?
西岡プロ🎾 つけれないって書いてありました。
出れなさすぎて、そういうのもありましたし。
それこそ、修学旅行も行かなかったし。もちろん中学の卒業式も出られなくて体育祭とかそういうのも基本出れなかったので。
皆さんが経験するであろうことは、全てできなかったので。
深谷アナ🎤 日常生活的なものは?
西岡プロ🎾 はい。そういう面ではいいところと、悪いところがありましたけど、まあ、ただね。
人のできない経験をする。そういうところはありますね。
深谷アナ🎤 なんかうちも子育て中、息子を育ててるんですけど、もう本当に「名古屋飯が好き」「名古屋大好き」「地元出たくない」みたいな愛知県、多いですよね。みんなね。
その真逆の生活をね。ある意味ご家族全員でされているわけではないですか。どういうサポート体制だったのかなとおもいまして。
西岡プロ🎾 どうなんでしょうね。ジュニアの頃は母親と父親が一緒に海外に行ってはなかったので。なので、基本的にはコーチだったり、国の管轄の人と一緒にご飯を食べていたので。家族は常に日本にいたんですけど、やっぱり18歳くらいになってからは、1年に3ケ月くらいなんですね。日本にいられるのが。
深谷アナ🎤 日本にいるのが3ケ月くらいなんですね。
西岡プロ🎾 だから9ケ月くらいは海外にいて、それはひとつの場所ではなくて、いろんなところに転々としていてトータル9ケ月くらいなんですけど。やっぱり日本に帰ってくるときのご飯が一番美味しいですよね。
深谷アナ🎤 それはやっぱりそうなんですよね。
西岡プロ🎾 はい。今、僕は世界ランキング48位なので(2023年11月イベント当時)
本当に大きな大会、良い街で行われてるんですよ。良い街って言ったら ちょっと、あれですね。
深谷アナ🎤 治安がいいというか。
西岡プロ🎾 あっ、そうです!
いわゆる首都みたいな場所で行われているので、パリだったり、ニューヨークだったりとか、というところで行われるので、正直、今は困ることがほとんどないんですよ。
だから当時、その頃、代表で出ていたカザフスタンのアスタナっていうところとか、当時12月に行ったのでマイナス40度だったんですよ。
そういうのって初めて経験したので、本当に鼻で息吸ったら鼻毛凍るんですよ。
深谷アナ ちょっと、ハーってやったら、大変ですよね。
西岡プロ🎾 そうなんですよ。大きく息を吸ってはいけないとかあって。
もちろん試合は体育館の中でやるんですけど。
だから、そういうのに行くと日本て素晴らしいなって思うじゃないですか。
深谷アナ🎤 普通に息できますもんね(笑)
西岡プロ🎾 食べ物も困らないし。
だから、そういう経験してきて、いざ日本に帰って来ると日本っていい国だなって思うし、生活しやすいなって思うことはやっぱり多々ありました。
深谷アナ🎤 そうなんですね。で、お母様の帯同されてとか、そういう感じですか?
西岡プロ🎾 いや お母さんの帯同はなかったので。
深谷アナ🎤 あっ、そうなんですね。
西岡プロ🎾 たまに見に来てくれるだけで、基本的には別の人と行ったりとかしていました。
それこそ、家族と会う時間がなかったです。
深谷アナ🎤 なるほど。もう、どれだけの精神鍛錬をされたのかなと思ったりするのですが。
先ほどのプロ宣言される前から試合をされているという話の続きでいろいろな大きな試合に出られていると思いますし、つい最近もパリでやられるとかありましたけど。
たくさんの試合に出て西岡選手にとって、これっていう印象深い試合とか、自分のきっかけになったなっていう試合って何かありますか?
西岡プロ🎾 そうですね。いくつか、あるんですけど、一番僕の中で衝撃だったというか、初めてラフェル・ナダル選手と試合した時は、メキシコのアカプルコという場所なんですけど。
やっぱり、ずっと、それこそ、テレビ観たりとか雑誌とか観ていたわけですよ。当時ジュニアだった時にナダル選手のフォアハンドとか見て実践してみてたんで。このガット使ってみたいとか同じもの使ってみたい
とか、ああいうスイングしてスピンかけたいとか、やってたんですよ。
憧れで、やってみよう、やってみようってやって、肘痛めたんですよ。で、やめたんですよ。これは真似できないと思って。
でも、そういう選手と初めて相見えるってなったときは、すごい緊張しましたね。
正直、テニスのスコアで言うなら1ゲーム取れるかなって、トレーナーさんと話してたんですよ。
今度のナダルとの試合1ゲームいけるかな?
もう、0-6 0-6で負けるんじゃない?
みたいな
深谷アナ🎤 それって、気持ちの面で負けちゃうんですか?
西岡プロ🎾 いや それよりレベル差があったんで。テレビで観てる人と試合した瞬間に僕がどれだけテニスができたとしても、向こうのほうのテニスの凄さしか知らないので、自分がどれだけできるのかなって。わからなくて。
どうしよう。1ゲーム取れたらいいよね。
ってトレーナーさんと話してて。
その時は、6-7、3-6、で負けたんですけれど、自分の中ではすごい惜しい試合だったと感じていて、そういう瞬間は自分の中でも大きかった
ですね。
「自分がテレビで観ていた選手との差が、もちろん、たくさんあったけど、それでも、ある程度、自分でも試合はできるんだ」
っていうのを初めて経験した瞬間だったので、もちろん、そこから、いろんな選手とたくさん試合してきましたけど、その衝撃は大きかったですね。
深谷アナ🎤 でも、やっぱりすごいですね。ある意味、夢に見ていたその人と自分が対戦私ていけるかもって思ったわけですよね。
西岡プロ🎾 その後、2回ともダメでした。
深谷アナ🎤 それでも毎日、真似していたら、肘を痛めるっていうのもあるでしょうし、日常の中で危険っていっぱいあるし、体が資本のお仕事ではないですか
一度大きな怪我があると思うのですが、大きな怪我をされましたね?
西岡プロ🎾 ありますね。左膝の前十字靭帯の部分断裂っていうのをやったんで、1年半、その9ケ月がツアーからアウトして、その期間大体1年間の出られない期間があったんですけど。
そのときは大体ハタチくらい、20、21歳のときなので、いろんな意味での衝撃があったんですね。僕の中で、大きな怪我っていうのはほとんどしたことがなくて、そのとき、僕、前の試合で絶好調だったんですよ。
それこそ、さっきのナダル選手と初めて試合をした翌々週くらいかな。
いい試合をしていて、当時、世界の十何位くらいにいたジャックソック選手がいたんですけど、その選手に勝ちかけてるくらいに膝を痛めて。
深谷アナ🎤 それは試合中に?
西岡プロ🎾 試合中です。
深谷アナ🎤 何かしたんですか?
西岡プロ🎾 なんか、膝から抜けるような感覚があったんですよ。でも、これは、もっとひどい前十字靭帯をやった人は音がしたらしくて、僕のは結構軽いみたいなんですけど分からなかったですもん。
左膝を「なんか抜けたなー」みたいな、なんか本当に変な感じなんですけど、膝の中から何かが抜ける感じがするんですよ。で、「あ、抜けた」ってなったんですけど。
でも、自分はそういう怪我をしたことがないので、全然、大丈夫だろうと思って、ずっと試合してたんですけど。
深谷アナ🎤 その後もプレーされていたんですね。
西岡プロ🎾 でもトレーナーにやめろって、ずっと言われてたんですけど。
「いや、勝てそうじゃん 十何位に勝てそうだからやろうよ」
深谷アナ🎤 そうですよね。負けず嫌いだから。
西岡プロ🎾 もう、その日は雨が降って中断になって。
「いや、もうこれは絶対に切れてる」
って言われて触って触診して
「これはちょとまずいね」って。
あそこでもっと無理していたら、もうちょっと長かったんですけど。
深谷アナ🎤 逆にね。選手生命を天が味方したみたいな感じですよね。
左膝前十字靭帯の部分断裂ということなんですけど、そのあとは、動いてはダメみたいな感じですか?
西岡プロ🎾 まず靭帯が切れているので繋ぐじゃないですか。靭帯を。ただ、足りないんですよ。
これは2つの方法があって、亡くなられた方の筋肉から持ってくるか。移植するか。自分の腿裏の筋肉を移植するのかのどっちか。
深谷アナ🎤 2箇所、手術するってことですか。
西岡プロ🎾 そうです。腿裏から切る場合は、自分の筋肉の方が生きている組織なので強度が高いよと言われて、自分の腿裏の筋肉を移植して繋いだんです。まだ、ボトルが入ってるんですけど左膝には。
めちゃくちゃ良い先生だったので、すごいスムーズに終わって、でも1ケ月くらいは車椅子みたいな生活でしたね。
深谷アナ🎤 そうなんですね。でも、それだけ自由に体を動かせないのが、まずは人生初ですもんね。
西岡プロ🎾 初めてでした。
深谷アナ🎤 落ち込んでしまうと思うんですけど、メンタル的にはどうでしたか?
西岡プロ🎾 僕は本当にこんな生活だったので、怪我して1年アウトって言われたときに、さっきも言ったみたいに、9ケ月くらい海外にいるペースでっていうので。
逆に1年間日本にいられるやんっていうので
めっちゃ喜んだんですよ。そのときは。
深谷アナ🎤 めちゃくちゃ、ポジティブですね。
西岡プロ🎾 そう「嬉しい」って思って。
「日本にいれる」って思って。自分の行きたくないところに行かなくて済むんで仕方なく行かないといけないんですけど、厳しい国には。
さっきも言ったみたいに1年間大体30週くらい大会がある中で行きたくない時もあるんですよ。
「あ、1年間、行かなくていいんだ」
ってなって、ちょっと喜んでましたね。
深谷アナ🎤 やっぱりそこからは普段の練習とは違うリハビリっていうのも入ってくるでしょうし、ご自身の中では、やはりきつい期間もあったのではないかと思うんですけど。
西岡プロ🎾 やっぱり、きつかったですよ。ある程度の期間リハビリやるんですけど。
大体、朝8時から始まって終わるの19時とか、
昼休憩が大体1時間半くらいあるので、ずっとやってる時間帯が8時間か。
深谷アナ🎤 普通のサラリーマンですね。
西岡プロ🎾 本当にそうですね。みなさんが普段デスクで仕事している時間、体を動かしているので。
なので面白い話でリハビリ室からは人が消えるんですよ。
深谷アナ🎤 え、どういうことですか?
西岡プロ🎾 行きたくないんですよ。
リハビリ室に(笑)
深谷アナ🎤 きついから?
西岡プロ🎾 8時間ずっと毎日やるなんて嫌なんですよね。で、しかもスポーツをやるわけじゃないし。ずっと体の地味な肩甲骨のここを動かしましょうとか、本当にここの小さい筋肉を動かすトレーニングをしましょうとかやるんですよ。
そんなのやりたくないんですよね。
深谷アナ🎤 面白味がないですもんね。
西岡プロ🎾 だから、みんなちょっとずつ逃げて・・・。
ここからは言っていいのか、分からないですけど。
錦織選手も2ケ月くらいで逃げたって(笑)
深谷アナ🎤 続かなかったんですね。
西岡プロ🎾 僕も正直何回かサボりました。
深谷アナ🎤 だけど、逃げはしなかった?
西岡プロ🎾 まあ逃げはしなかったですね。
「ごめんなさい、サボります」っていうのがありました。
深谷アナ🎤 そういうのも必要だと思いますけど、そのある意味テニスができない転機でも、ある期間、普段、できないことをされたりとかは?
西岡プロ🎾 そうですね。Youtubeだとかはその時期に始めたものですし、自分なりにいろんなものを勉強しないといけないと思ったので、僕はそんなに座学は好きではないので、特に数学とか、理科とかはそんなに好きではなかったんです
けど必要なことは学んだ方がいいっていうので、例えばいろんなお金に関してのお話だったりとか、そういうものはすごい勉強しましたね。
深谷アナ🎤 もともとは何かご自分の今後に役立ちそうな体づくりとか、そう言ったことは勉強されたりしましたか?
西岡プロ🎾 当時、栄養士さんをつけて。まずは3ケ月走れないので。
でも、ご飯は食べないといけないじゃないですか。
通常通り、ご飯を食べていったら、体重が増えていってしまうし。
深谷アナ🎤 運動量が違いますもんね。
西岡プロ🎾 どうしたら太らずに、でも健康的にプラスいい栄養状態を保てるかっていうので、栄養士さんと、まずは自分が料理を始めましたね。
深谷アナ🎤 今、その太らずにっていうところ、私と心美さん、一番聞きたかったんですよ
運動は何もしてないけど、太らずにが聞きたいと思っちゃいました。
西岡プロ🎾 1つ例を挙げると1ケ月揚げ物を一切食べないとか、油の量をめっちゃ制限したりしていました。普通の半分くらいの油しか摂らないとか、もしくは1日に何十品目取れるかっていうのをやっていましたね。
ご飯とお肉だけとかでなくて、ご飯もちゃんと食べるけど野菜にもトマトがあってキュウリがあってレタスがあって。この品目で何品目だったかな。
30何品目か40何品目くらいは絶対摂ってました。
深谷アナ🎤 そんなに?
西岡プロ🎾 を全部、自炊でやっていました。
で、もう栄養的にも勉強をしつつ
深谷アナ🎾 すごい!
西岡プロ🎾 確かに自分でやってみて、毎日やるのは大変だなって思ったので。まぁ、それだけ時間があるので、自分でやりましたけど。まあ普段の生活に戻ったらプロに任せてね。
深谷アナ🎤 やはり怪我をしたりすると一般の私たちでも、ちょっと体の調子が悪いとかで入院したりすると、本当にどうなんだろうかとメンタル的にすごく落ち込んだりすることがあるとおもうのですが、西岡選手はどうでしたか?
西岡プロ🎾 当時、僕の左膝前十字は断裂した選手で、自分のランキングまで戻ってきた選手はいないって言われていたんですよ。当時57位くらいで、58位だったかな。とかで断裂したんですけど。そこまで戻った選手は過去にいないって言われてたので、逆に戻ってきたら全部の情報を欲しいって言われたんですよ。
どうやって戻ったか どういうリハビリをして、どういう生活をしてそこまで.戻ってきたのかを具体的に情報として欲しいって言われて。上に戻ったので
いろいろなところから聞かれましたけど、ツアーは全部負けたんですよ。
やっぱり最初の3ケ月は正直めちゃくちゃ楽観的なので。
「まあ何もできないし」みたいな。
深谷アナ🎤 「休める!」みたいな?
西岡プロ🎾 3ケ月間、走ってはダメって言われたので、どう頑張っても何もできないんですよ。なので何もできないなと思いながら生活をして、ただ、それが動けるようになってくると、車椅子でテニスをやってみたりとかするんですよね。
テニスコートに行ったら後輩、先輩たちがテニスをしていて、ちょっとずつテニスに触れていくんですよ。動けるようになると。そういった瞬間ちょっと
辛かったです。
「あー俺もテニスしたいな」とか「試合行きたいな」って思う瞬間は、実際6ケ月くらい思ってました。そのあたりは結構辛かったですね。実際、自分がどれだけ戻っていけるかすら、明確ではなかったので。
深谷アナ🎤 そういったときに何か変化をとろうとか、何か本を読んで自分の心を救いたいとかありましたか?
西岡プロ🎾 その時はたくさん本を読んでいたので自分の中で一つモットーができたんですけど。確率論の話を読んだんですけど、難しい本があるんですけど、世の中のいろんな確率の話の本を読んでいく中で、自分の中での、いろいろあるじゃないですか。
生きてる上でうまくいく瞬間があって、うまくいかない瞬間があるじゃないですか。それって、もちろん自分の選択なんですけど、まあ、でも、本来、未来は誰にも分からなくて、その中からいいことを願って未来を描いていくと思うんですけど。
そうなる確率とか、逆にうまくいかない確率とかを引いた瞬間にどういう考え方ができるかが大事なんですよ。
僕の中で、それを読んでいく中で逆に悪い方を引いたとしても逆にどういう選択をしたとしても、何かしらのことは起きていくわけで、それをちゃんと
理解するべきっていうことを思っていて、どんな選択をしていても最終的には自分の中で、何かから起こりうるための選択だった。
というふうに落とし込むようにしているので、僕でいえば負けが先行したときも、この選択のおかげで何か変わっていくはずって思っています。
例えば、怪我をしたときも怪我をしたことで、今、いろんなことができる、起こることにはすべて意味があると思っているので、そういうふうに自分の中で考えていました。
深谷アナ🎤 なるほど。そのときはマイナスだなって思うことでも、マイナスにしたままにしないってことですね。
西岡プロ🎾 はい。次に繋がる何かだったっていうふうにしています。
深谷アナ🎤 なるほど そうか。
それでね メンタル的に強く保って AだかBだかCだか、データ公開して無事すごい成績も戻って来られたということですね。
今はやっとお休み期間に入ったということですか。オフシーズン?
西岡プロ🎾 今はオフシーズンです。
深谷アナ🎤 オフシーズンはどのように過ごしたりしているんですか?
西岡プロ🎾 基本的には今回は正直早くてオフシーズンが始まったので、余裕もってオフを過ごしていて帰国してから、もちろん自由な時間も多いですけど。
やっぱり、こうやってイベントだったりとか、自分のやるべきことYoshi’s CUPももちろんそうなんですけど大会の準備だったりとか、そういうものが増えるのでオフシーズンだけど遊んでるってよりは、どちらかというといろんな人に会ったりとか、食事に行ったりとか、何かしらの仕事をするっていうのが結構、多くなって、なんだかんだで忙しいです。
深谷アナ🎤 忙しいですね。もうプライベートな時間があまり取れないって感じですか?
西岡プロ🎾 もう無理やり作るしかないですね。
僕3日4日前まではベトナムの方に旅行にいってたんですけど。それはもう、完全に楽しみとして4日間いたんですけど、逆にもう、無理矢理行ってしまえば、もう仕事することができないので行ってしまったら、完全にオフでした。その4日間だけは、本当に仕事はほとんどなかったです。
深谷アナ🎤 もう、それは作らないと。
西岡プロ🎾 はい。日本にいると、ありがたいことに、いろんなところに呼んでいただいたりするんで。行かないとってなるんで、その分、自由な時間は減っていくので無理矢理作ってはいますね。
深谷アナ🎤 トレーニングは常に休まず、やっているんですか?
西岡プロ🎾 いや、オフシーズンなので、さっき言ったみたいに、オン・オフを超大事にしているので。
深谷アナ🎤 超(笑)
西岡プロ🎾 今は4週間くらいは、ほぼやっていないですね。
深谷アナ🎤 筋力トレーニングとかは?
西岡プロ🎾 はい。ほとんどやっていないです。
深谷アナ🎤 やらなくて大丈夫なんですか?
西岡プロ🎾 いやーまあ、1年間はやり続けてきたんで4週間くらいは大丈夫ではないかと。
深谷アナ🎤 わかりますよ。今、言いたかったんですよね。ちょっとくらい休んだっていいじゃないって。
西岡選手からYoshi’sカップという言葉がでてきたのですが、Yoshi’sカップについて教えていただいていいですか?
西岡プロ🎾 今、僕がやっているのが、16歳以下の全国トップ8人限定で大会をやっていて僕が8人を招待するんですけど、これが今年で3回目なのですが。(2023年イベント当時)
本当に全国でちゃんと結果を残している、今年来る子は全日本ジュニアとか、16歳以下の優勝・準優勝、ベスト4 2人 で14歳以下の優勝、15歳
以下の全国大会優勝、ジュニアの代表2人、全年代の一番上を全員呼んだんですけど、その子ら8人を戦わせて優勝者に支援金を渡すっていうのをやって
いるんですよ。海外に行くための。
本当に子どもの時から海外に行かないといけないので、テニスっていうスポーツは本当にやっぱりお金がかかるんですよ。
深谷アナ🎤 それはそうですよね。まずは、単純に運賃だけでも高いですしね。
西岡プロ🎾 しかも今値上がりしていますしホテル代も高いですし、子どもたちだけでは行けないので、引率の親だとかコーチだとか必要になってくるんで、かなりお金がかかるんですよ。
本当にだから僕もお父さん、お母さんに、
ありがとうございました!
やっぱり、それを誰かが負担してあげれば、
お金っていう面でやめようって思っていたことが、もしできた瞬間に、もしかしたら違う可能性が開けるじゃないですか。なので、そのチャンスをあげたいなって、優勝者には今年は300万円の支援金を出すんですよ(2023年)。
100万円ずつあげていくんですね。
今年(2023年)優勝者には300万円渡して、来年
1年はこれで遠征に行ってくださいっていう風にしていて、他にも栄養士さんのサポートをこっちで
受け持ったりとか、もちろん、この大会は招待なので交通費、宿泊費は全部タダですし僕たちの大会が全部、払うんで、もちろん、みんな実力のあるジュニアの子たちなので、その子たちにとって輝ける大会になればいいなっていう思いで大会をやっていて。
世界的にもたぶん僕だけだと思うので。この大会が。結構、海外のプレイヤーとも話をするんですけど、こういう支援っていう形ってすごい難しいことじゃないんですけど、誰かに可能性をあげれれば、
それを掴んでいく子がいれば、何かしら羽ばたいてくれる可能性があって、もちろん僕もそのときのSONYの会長さんに助けてもらった重みがやっぱり
あるので、誰かしらがそうやって手を差し伸べてあげればいいなと思ってそういう大会を作っているんですね。
深谷アナ🎤 そういった活動は素晴らしいですけど、ある意味、もうちょっと歳をとって引退しからでもできると思ってしまうのですが、現役の今、そもそも自身も大変なのに、そういった若い世代に還元をって考えていらっしゃるのは、何かあるんですか?
西岡プロ🎾 めちゃくちゃ同じことを多方面で言われるんですよ。
今じゃなくていいんじゃないかとか言われるんですけど、今だからこそこれだけ手厚くやれると思っているんですね。支援金で300万円渡して、交通費、宿泊費を全部出して、なおかつ映像にめっちゃお金かけてるんでプロと同じような形で試合をさせるっていう形を取ってるんですよ。
本当にめちゃくちゃお金をかけたジュニアの大会なので、これを集められるってなると、やっぱり現役の今だからこそ、ある程度いろんな方が動いてくれて、スポンサーがついてくれるんですね。
これを今やらなければ、影響力がどんどんなくなっていくので、だからこそ、今やる必要性がある。だからこそ、少なくとも結果を出さないといけない。
そうやって言われてしまうので。今じゃない やっぱりやめたほうがいい。って言われてしまうので。だから僕は少なくとも結果を出すっていう。
深谷アナ🎤 自分の成績を。
西岡プロ🎾 自分の成績を出して、それを言われても。でも、ちゃんと結果は出してる。
だから大会にも繋がっていると言えるようにしています。
深谷アナ🎤 すごいですね。そのプレッシャーに打ち勝っている!すごい。
西岡プロ🎾 まあ、やりたいからやっているので。
やりたくないけど、やらされているわけではないので。なので、できるんだとおもいます。
深谷アナ🎤 なるほど そうなんですね。
でも本当に小さい頃から、いろんな経験もされているし、費用面でまわりの皆様もそういうところを見ていらっしゃる西岡選手だからこそ。こういうこと実現できたのかなって。
それくらい若い世代に支援していくっていうのも、そういった大会をすることで、ご自身も若い世代から刺激を受けたりとか、何か「お、そういうことがあるんだ」とか、気づきがあるときってありますか?
西岡プロ🎾 僕は正直コーチングっていうものにあんまり興味はないんですね。
僕はコーチではなくて選手をやっていて、子どもたちとテニスをやったりとか、そういうのはすごい好きなんですけど、だからと言って僕はみんなのコーチではないので、細かい技術をどうこうっていうのは、Yoshi’s CUPでは一切やらないです。
なので、そういうことを聞かれても、僕はジュニアの子たちには「これは大会だから僕に聞かないで自分のコーチに聞いてください」
っていうふうにはしてるんですね。
僕があげられるものって、僕はたぶん経験はいっぱいしてきてるので、そういうものは伝えてあげられるんですよ。
どういうふうにプロになってきたのか、プロになってどれだけ辛いかとか、どういう苦労があって
でも、どういういいことがあるとかっていうのを
僕は伝えてあげられるので。そういうことは伝えてあげられる。
ただし、それもメインではなくて技術云々とかは、自分のホームコートのコーチとやってもらったらいいかな。あくまで僕は経験をあげたりという意味で、大会をやっているっていう感じです。
深谷アナ🎤 なるほど。今この会場にいるみんなにも、その子どもたちから質問があったような選手生活の辛い部分、そして、ものすごく幸せを感じられる部分、それぞれ、一つずつ教えて欲しいです。
西岡プロ🎾 やっぱり辛い部分で言ったらそれこそ、これも楽しい部分かもしれないです。
けど、これをずっと続けていく可能性があるって考えると、10年とかずっとさっき話したマイナス40度じゃないですけど、そういう場所にいけるかっていう話で。やっぱり僕の経験則で言ったら、日本はすごく暮らしやすい国だと思うんですけど。
それを出ていって、もっと下部ツアーになれば、もっともっと待遇が悪いんですよ。僕がではなくて でも話で聞くとメキシコとかに行くとタクシーに乗ったら、知らないところに連れて行かれたりとか、全然、あるんですよ。
危険な目にあったりマフィアとか住んでいるところで、身包み、全部取られてとか。それも聞いているので、そういうところにも行かないといけないんですよ。これをギリ笑えない可能性もあったんですよ。
僕はランキング50位切ったんですけど、ここまで来れるなら、すごい良い経験はたくさんできます。ただ、ここに来るまでは、めちゃくちゃ、いろんな
ところに行かなきゃいけないので。そういう下積みの時代がある感じ、それをそれだけ耐えられますか?っていうのはすごく思います。
で、全世界の選手がそれで苦しんでやっているので、そこから這い上がって上に行ける人は本当に一握りですっていう、それを考えてもやりたいかなって思えるかですね。もちろん、いいことに関してはいろんな面でたくさん、ありますけど。やっぱり結果をだせれば、もちろんいろんなところに注目がいってすごい価値のあるスポンサーがついたりとか商品化するんで。
海外のテニスは正直収入面ではすごい余裕になってくると思いますし、プラスやっぱり1つは、自分がやりたいって思い続けたもので生活していけることの幸せさは、たぶん何にも変えられない。これが一番の幸せだと思います。
深谷アナ🎤 そういった経験をこういったお仕事とかでたくさん伝えてくださっているんですね。今日は限られた時間で28年間の西岡選手の自分史は、聴ききれなかったです。
西岡プロ🎾 2%くらいしか話せてないです!
深谷アナ🎤 どんなにおしゃべりなんですか(笑)
西岡プロ🎾 いや ちょっと楽しくなっちゃって(笑)
深谷アナ🎤 いっぱい話していただいてありがとうございます。
最後に西岡選手からみなさんにメッセージをお願いします。
西岡プロ🎾 テニスは長くできる競技だとおもっていて、生涯スポーツの1つだとおもっているので、ずっと楽しんでテニスをやってもらえると、僕はすごく嬉しいなと思っています。
たくさんの人とテニスをやって、そういうものを求めていければとおもっています。
あと、Yoshi'sCUPの配信が僕のYoutubeチャンネル「ヨシズチャンネル」でやっています。その歳の14歳から16歳の全国のトップレベルしかでないので、同学年の日本の1番がでます。みてほしいです。なぜかというと自分たちのトップがでる、どういう選手が今強くて、その選手たちは、どういうテニスをしていて何がすごいのかっていうのは、ちゃんとみるべきだと思っています。
僕はすごくいろんな選手の試合をみて勉強したり分析したりしてこういう選手はこういうことをやっているんだとか、すごい学ぶように僕は自分でしているので、みなさんも時間さえあれば、そういうようなものをみてもらって、自分たちの同学年、もしくは、年上たちの実力っていうものをみてもらえれば嬉しいなと思っているので、ぜひ配信を見てもらえたらと思います。
深谷アナ🎤 本当にいろんなものを全てプラスにポジティブに変えていける、その姿勢がすごいなとおもいました。
今日は貴重な時間をありがとうございました。
2023年11月25日 春日井市総合体育館にて開催
西岡良仁プロ自分史トークイベントより
文字起こしをするにあたり、できるだけトークのニュアンスが変わらないように、そのままの会話言葉にしています。ただ、前後のトーク内容により、読みやすく編集した部分もあることをご了承ください。
文字起こし 心美
*文章の引用、転載は不可
⬆️YouTube西岡良仁プロ自分史トークイベント
10分ダイジェスト
⬆️YouTube90分西岡良仁プロ自分史トークイベント
⬆️YouTubeのだっちチャンネル
⬆️60分西岡良仁プロとゲーム対決・レクチャー